デザインは作品ではない。

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こんばんわ。さるぼぼ母です。

週末は、久しぶりに11月に相応しい、気持ちのよい天気でしたね。やっと秋が来た、と思ったらもう11月も中旬になってしまいました。今年もあと残すところ1ヶ月半、つい先日まで暑くてクーラーをつけていたかと思うと、一年なんてあっという間に過ぎてしまいます。そろそろ、年末に向けてお忙しくされている方も多いのではないでしょうか。

先日、多摩美大生が行ったパフォーマンスについての日記を書いたのですが、そこで「デザインは芸術ではない」ということをお伝えしたかと思います。

具体的にどういう風に、ということを伝えていなかったので、今日はこれについてもう少し書いてみたいと思います。

デザイナーの経歴にハクをつけるデザインの賞。

え、そんなの当たり前じゃない、わかってるよ、という方も多いかもしれませんが、実際に私が接してきたデザイナーの中には、全然わかってない人も多いです。

だいたい、そういう方は若いうちに有名な事務所とか代理店に入ってまして、賞を取るんですね。あるいは、雑誌等に取り上げられて、有名になります。これ、グラフィックデザインの話です。先の佐野研二郎さんの話の続きですから。

グラフィックデザインの賞として大きいのが、ADC賞ですね。ADCというのは東京アートディレクターズクラブ(TOKYO ART DIRECTOR CLUB)の略です。どちらかというと、広告寄りの賞で、このADCに所属する会員が選考して選ぶ賞です。ちなみに2016年のグランプリは大塚製薬の「カロリーメイト 見せてやれ、底力。」のCMや広告だそうです。

そのほかにも東京TDC賞(東京タイプディレクターズクラブの略でタイポグラフィを主体にしたデザイン賞)、JAGDA賞(日本グラフィックデザイナー協会)、毎日広告賞、グッドデザイン賞などなど、まあいろいろありますが、デザイナーあるいはアートディレクターがこれらの賞を取れば、デザイン界に認められたことになるわけです。

もちろん、実力があるから賞を取るわけですが、賞を取らないまでもちょっと有名になると、とにかく自分の主張を曲げずに押し通す若いデザイナーは私が知ってる限り、結構多いです。本当に優秀な方なら「デザインは芸術ではない」ことを分かっているのですが、どうしても自分の主張(やりたいこと)を押し付けがちになります。自分の作品を作りたいのですよね。

デザインはビジュアル(視覚的)な解決法である。

デザインはビジュアルな解決法です。たとえば商品のイメージを伝えるとか、情報を整理するとか、あるいはブランディングをするとか、単独で成立するものではありません。オーダーがあってはじめて成立するのです。

つまり、まったくもって芸術「作品」ではないわけです。

ネット上での佐野研二郎さんのデザインへの批判は、正しい部分もありましたが、視点が間違っています。デザインは作品ではありませんから完全な「オリジナリティ」を持つわけではないのです。

また、デザインにはルールがあります。どんなにセンスがない人でも、一定のこのルールに従ってさえいれば、ある程度の見栄えの良いデザインをすることが可能です。なぜなら、デザインはビジュアルな情報を可視化して伝える手段だからです。

たとえば、センターに揃える、オブジェクト(文字とかビジュアルなものとか)は揃える、フォントの種類はそんなにたくさん使わない、とか、人の自然な視線の動きに沿った情報の配置をする、とか、です。

文章についても同じことが言えます。義務教育で習う「国語」は正しい日本語を教えることを目的としています。文章教室では、最低限のルール、言葉の使い方、文章の構成の仕方、形容詞の使い方などなど。これさえきちんとできていれば論理的で読みやすい文章を書くことは可能です。

ところが小説とか詩は違います。もちろん、文章としてある程度読者が読めるようになっていなければ、共感することも難しいですので、それは最低限の基準となります。ですが、そこからいかに「逸脱していくか」、そしていかにオリジナリティを持つか、それこそ「作品性」を持つかということが大事になってくるでしょう。


デザインに話を戻します。先ほどの「デザインのルール」とは、基本の基本です。おそらく、学生のうちにこれらを学ぶ必要がデザイナーには必要となります。デザインが上がってきたのを見て、「ここ全然揃ってない」とかいうデザイナーとはそもそもお付き合いしたくないです(結構いますけど)。

これを基礎体力とすると、それにオリジナリティというよりは「味付け」をしていくというのがデザインの方法論として正しいのではないか、と思います。いわゆる「◯◯風」ってやつですね。

これ、先のブログでも書いたんですが、結構あります。どこかで見たものを人は記憶して、自分の中で情報として分類します。あるいはPinterestにクリップしていくのかもしれません。あ、これいいな、どこかで使いたいな、こんな風なデザイン。

そういった記憶やアーカイブをデザインの引き出し、と呼ぶことにしましょう。その引き出しの数や深さが多ければ多いほど、デザイナーはいろんなデザインができるようになります(もちろん基礎体力がなければできません)。

◼︎デザインのオリジナリティは、ルールと模倣の上に成り立つ?

オリジナリティは最初から生まれるものではなく、最初に基礎体力があり、それにオーダーからくる情報整理やコンセプトを形にすることがあり、その骨組みにアーカイブから引き出した味付けをするのだと思います。その時にアーカイブから引き出す、言い換えれば「模倣」ということが必ずしも悪いことではないと思うのです。

ただし、モチーフや構成要素、配置や味付けを「模倣」を「模倣」のままにしてしまうことが「剽窃」であり、「盗作」と言われることになるわけです。模倣を模倣のままにせず、そこから小さなオリジナリティを生み出す、また、ルールからはみ出していくことで、すぐれたデザインが生まれていくのではないかと私は考えています。

この模倣を模倣として放置するような日常的な仕事ぶりが慢性化していたことが、一番許されるべきではなく、オーダーしたクライアントにも、そしてデザインを目にする人たちにとっても、騙されていた、という気持ちを抱かせたことが事態を大きくしてしまったように思います。


長くなりましたので今日はここまで。
それではまた。

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