※イメージ写真です。
さるぼぼ父です。作曲家船村徹さんが亡くなりました。享年84。
特筆すべきエピソードとしては以下があります。
◎ビートルズがEMIレコードでオーディションを受けていた時その場にいた唯一の日本人
◎音楽学校で黒柳徹子の一年後輩
◎大衆歌謡作曲家としてただ一人文化勲章受章
知らぬ間に諳んじていた曲、王将
子供の頃から耳について離れず、自然に憶えてしまっている、という歌はいくつかあるのですが、王将はその中でも最たるものです。一時期はテレビの歌謡番組やラジオから、いつも、といっていいくらいこの曲が流れていました。
明日はトウキョウに出ていくのだから、どうしてでも勝たなければならない、という思いは、地方から都会へと、農村から工場へとさまざまな思いで人々が集まっていった集団就職政策の時代にマッチしていました。出ていく先がトウキョウでなくても、オオサカでもフクオカでも、サッポロでもマツヤマでもいいのです。いまいる場所が農村でも漁村でも、山林地帯でも僻地の孤島でも、いいのです。
あの時代の、否が応でも社会に参画しなければならなくなった人々への切なる応援歌、それが王将でした。
遠く関東王国の響きを伝えるメロディ
北関東の人が作る歌の世界です。
「こころ」を「けけれ」、と発声する東の文化がありました。源実朝の歌などにその痕跡が垣間見えます。おそらくこの文化はいまの江戸弁にまっすぐつながっています。
かつて本州の東国に大きな共同体があったのだと思います。古代豪族連合のようなものでしょうか。ゆるい紐帯で、それなりに和平を維持した一時期があったのでしょう。
千葉、茨城、栃木あたりには、土地に深く沈着していったそんな文化が露出していて、その天真爛漫さは驚くばかりです。古代の様相を維持したこの高度な生活文化は、のちの輸入文化優先の人々から疎まれ排撃されるものとなりました。
それゆえ今では北関東的なるものは、ダサい、クサイ、カッコ悪いと揶揄されることになります。本来は歴史の無意識が体現した、立派な生活知識教養だったようなものが、です。
だから明治維新以降で単純に土着と文明などと議論しても、ことの真実にはたどり着かないものだと思われます。
もっと根は深いのだ。
とにかく船村徹の作る曲には、引き裂かれ誤解され侮辱され唾を吐かれ、それでもなにくそ、と行きていくことを肚の奥底で決意する、庶民の本質に行き当たった表現の核があり、それが王将の中にも貫かれており、人々に無類の感動を与え、歌われます。つまりヒットするのです。
ちあきなおみ。船村曲最高の歌い手
ちあきなおみの曲をyoutubeで追いかけて、深夜密かに聴いていた時期がありました。
中でも大層深い感銘を受けたのは、ねえあんた、黄昏のビギン、矢切の渡しあたりです。
船村徹はちあきなおみの歌唱をことのほか高く評価したといいます。それはそうでしょう、息遣いの中に曲の本質をあらわすことのできる稀なる歌手です。
ちあきなおみが歌うと、音と音との間の、沈黙と言っていい部分から、船村徹メロディーの真髄が立ち現れます。
北関東、と言いましたが、その最大のあらわれが乱れ髪です。歌詞の舞台は福島県いわき市は塩屋崎に立つ孤高の灯台。煌々と光を放つのは美空ひばり、照らし出そうとするのは、永遠の私の男。
美空ひばりの曲の中で私が偏愛するのは越後獅子の唄とこの乱れ髪です。
船村徹本人のうたう矢切の渡しは絶品
年老いてからは、ギターを自ら爪弾きながら、全国各地で歌う演歌巡礼の旅を重ねました。バンマスとしてバックバンドを従えることもあったようです。
常にその時代の普通の日本人の情念のそばに寄り添っていたかったのでしょう。それが船村徹の作品の源泉でもありました。
そんな一端が垣間見える映像が残っています。テレビの番組に特集された船村徹の姿。本人による乱れ髪の歌唱は絶品です。
どうやって生きていけばいいのかわからない時、生きていけないのではないかと思い悩んだ時、彼の歌を聴いて、やはり生きていこうと思う日本人は多いと思いますが、私もそんな日本の庶民の一人です。合掌。